ショットグラスを出してくれ...ただいま!


これまで私は何度も自分の帰還を発表してきた気がしますが、そのうち人々が私が本当に戻ったのか疑ってるんじゃないかと思います。多分それを証明できるのは、みんなへの奉仕だけじゃなくって、自分自身の為への仕事でしょう。

誰もがご存知の通り、脊損麻痺は行動を妨げます。しかしながら、健常者コミュニティの多くの人は、脊損麻痺がもたらすその他の事柄についてあまり知らないんだと私は感じます。ある人には、それは文字通り、例える事もなく、人を破滅させます。身体だけでなく心まで壊し、希望をも潰すのです。

私は自分が“脊損麻痺がもたらす他の事”の被害者である事は分かっています。その名も骨が砕かれる痛みです。私の人生は、脊損麻痺治癒への戦いから、日々襲い掛かる痛みから四六時中自分自身を守る為のチャレンジへと変わっていきました。

私は自分自身を割と強い人間だと思ってきました。そして被害者意識を持ったりするのもイヤでした。ですが、それには降伏しなくてはなりません。脊損麻痺が私にもたらしたのは、恐ろしい副次症状の被害者となり、私の年という長い間の人生を暗黒にしました。私が戻った最初の投稿で、これについて述べる事はあえてしませんが、ただ申し上げられるのは、戻れる状態になれるまで、私自身で痛みのコントロールができるようになったという事です。しかしながら、ヒントを差し上げるなら、それは心の持ちようとか、ポジティブシンキングがそうさせたのではなく、医療技術のお陰です。(そしてもちろん、皆さんの思いや祈りが、私がこの地獄から這い上がるようにと励ましてくれたお陰でもあります)

私がこのブログ「幹細胞と原爆」を始めたのは、2010年です。多くの皆さんが、このブログ名の由来をご存知ないと思います。短い言葉で言うなら、私は脊損麻痺の治癒が、原爆を作るよりもすごく簡単に見つかるだろうと信じています。

2009年から2010年に掛けて、幹細胞は新しいモノだったし、大きな希望でした。私の個人的な説では、1941年当時我々が持っていた核についての知識に比べて、2009年当時、私たちは幹細胞についてとても多くの知識がありました。ですので、年間という短い時間で核爆弾を作れるのなら、その時間で脊損麻痺の治癒は簡単に見つかるものだと思ったのです。

しかしながら、核爆弾製造は、しっかりとした資金提供と中央管理によって実現されました。それは今日の治癒研究のカオスとは比較になりません。もちろん、核爆弾の研究はとても良くまとまっていました。それは戦争に勝つという目標の為だったからです。さて、私の心の中では、負けられない戦があります。脊損麻痺の戦いです。私の文字の力や行動を通して、私はその戦いに何等かの役に立ちたいと心から思っています。そのスタート地点はここから始まるのではと思っています・・・

どれだけの間私が費やしているのかに関わらず、私の心はいつも2011年の自分の投稿記事を行ったり来たりしています。"Tequila shots for cirrhosis research「肝硬変リサーチへテキーラショット」 ". さあ始まります。

脊損麻痺だけではなく、多くの疾病の治癒を見つける為に、知識を広げる事に私と一緒に賛同してくれる人がいて欲しいと願っています。私の古い同志たちは今日もまだ戦っていると思います。そして私を支援してくれた多くの方々、特に翻訳で支援してくれるサポーターたちも、私にチャンスを与えてくれています。